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馬 思聡 Ma Sitson マー・スツォン(1912〜1987) 中国広東省生まれ。フランス・ベルギー楽派のヴァイオリン奏法を最初に中国へ導き入れた、本格的ヴァイオリニスト・作曲家。1923〜29の間2度にわたってフランスに留学。パリ音楽院でヴァイオリンをイザイ(1858〜1931)の弟子ブシュリに学ぶかたわら、ビナンボームに作曲法の指導を受けた。西洋近代の和声と中国の民族的叙情を卓越した感性で融和させた作品を、ヴァイオリン曲の他、ピアノ曲、オペラなど多岐のジャンルにわたって創作している。それらはいずれも単なる「中国音楽の西洋音楽の受容」にとどまらず、西洋音楽の中国的変容、内面化の過程を反映した、極めて芸術性の高いものである。 だが、全中国が政治的混乱に陥った文化大革命(1966〜1976)で「反動的学術権威者」として迫害され、その作品の総てが演奏禁止となった。さらに67年アメリカに亡命した事で「売国奴」と断罪され、後に名誉は回復されたものの、72歳でフィラデルフィアで客死した。 各地に四散していた馬思聡の楽譜は、劉薇によって収集・整理され、彼女の透徹した解釈に基づく演奏によって、その作品は今世界の脚光を浴びている。 |
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| 私がヴァイオリンを習い始めた 1973年頃は、中国では文化大革命の末期で、西洋音楽を含めて西欧文化全般が否定されていた時期であった。ヴァイオリン教科書なども全面的に発禁され、当時江青が推進していた「現代京劇」中の劇音楽の断片か革命歌曲、民謡しかなかった。私がヴァイオリンを習ったきっかけは、毛沢東の政策「上山下郷」(知識青年を農村へ送り肉体労働させる)運動の中、医者で音楽好きだった父が、子供が楽器を弾けたら地方劇団の音楽担当として厳しい労働を免れると思いついたことにあった。この父の愛情と強い執念のおかげであの文革のさなか私はヴァイオリンの勉強を始めることができ、馬思聡の《思郷曲》や《牧歌》に出会った。当時すでに彼は批判され、中国では「叛徒」としてその名を口にする事さえ許されなかったが、私にとっては懐かしく弾かずにはいられない曲となっていた。 1977年文革が終わって12年ぶりに全国の大学入試が再開された。 1980年に西安音楽学院に入学して以降、私は馬思聡音楽に魅せられ、彼の作品を弾き続けている。音楽留学生として来日してからのの間は、300回近いコンサートで演奏し、作品のほとんどを日本で紹介してきた。馬思聡の作品を演奏する度に、「中国の心」を表現するこれらの作品の素晴らしさを強く感じた。そして、この感動を緻密に分析し解釈する事が馬思聡音楽の今日的評価につながり、また彼の音楽活動を追うことが、中国における音楽の近代化の発展を跡づけることになると考えた。 |
博士学位論文「ヴァイオリン演奏家・作曲家としての馬思聡研究」の作成段階で、まず中国の複雑な政治的背景の中で、彼についての資料を入手するのが大変に困難だった。調査は彼の留学したパリ音楽院、晩年活動したアメリカ、台湾にも及んだ。またアメリカにいる彼の遺族とコンタクトをとりながら手元の資料を分析していった。こうして作成することができた「馬思聡の全作品表」によって、馬思聡研究を一歩前進させたと考えている。文化大革命で四散した先人の偉大な仕事を整理し、一定の位置付けをし、その結果誕生した2枚CDアルバム(間もなく3枚目発売)を私は誇りに思う。 かつてはじめて彼の作品を聴いた聴衆の一人が「ヴァイオリンが西洋の楽器という感じが全くしなかった、中国を表現するための楽器のような気がした」と感想を述べた。西洋音楽を受容し、中国音楽を世界音楽の潮流に参入させるため大きな貢献をした馬思聡も、その生涯は激動する政治に翻弄された。すでに 1930年代当時から彼は「学院派」という批判が名声の一方に存在していたが、文革の中でブルジョア思想階級の代表的人物、資産階級学院派という烙印が押され、言語に絶する迫害を受けた。彼は心ならずも愛する祖国を去ってアメリカに亡命した。以後75歳で没するまで遂に祖国に帰ることのなかった彼の無念さを思う時、後に続く中国音楽界第 5世代のヴァイオリニストの一人として、彼の作品を広く世界に知って貰いたいとの使命感にも似た想いを強くするのである。 (劉薇) |
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